世間礼賛

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例えば、音楽活動をしている人が麻薬で捕まったとしよう。彼、もしくは彼女が作り出した音楽に罪はあるのか。例えば、芸能活動をしている人がプライベートで不祥事を起こしたとしよう。その人の出演した映画やドラマ、ポスター、チラシに罪はあるのか。人間がこの世に産み出したもの全ては、その人間が犯した罪の責任を被らなければいけないのか。親が罪を犯したらその子どもたちまで責任に問われるのか。

例えば、教師が学校以外で不祥事を起こしたとしよう。学校長が責任を問われ、なぜ会見がひらかれるのか。例えば政治家がどこかで不用意な発言をしたとしよう。なぜ首相が問い詰められなければいけないのか。管理者は対象の有象無象全てのことに対して責任を被らなければいけないのか。子が犯した全ての罪は親まで責任を問われなければいけないのか。

誰が何に責任負って、誰が誰に責任負って、何は何に対して責任負って、あの人が悪い、この人が悪い、あっち側が悪い、こっち側が悪い、やれ炎上、やれ責任を取れ、やれ謝罪、やれ自粛、やれ陳謝、やれ販売停止、やれ活動停止、やれやれやれやれやれ……。

こういうのね、大好き。人間ぽいじゃん。人間味って言葉の意味は思いやりとか優しさって辞書に書いてあるけどさ、絶対違うから。こっちのが全然「人間味」あるよ。優しさ?思いやり?そんなの無いじゃん。責任っていう言葉だけの見えない存在に振り回されて関係者も無関係な人間もこぞって負の感情連鎖。ばよえ~ん連発状態。ぷよぷよだったらお邪魔ぷよ消えてくれるからゲームの方がまだマシ。負の感情は連鎖しても消えないし、むしろ増える。増え続けてお邪魔ぷよで画面いっぱいになってゲームオーバー。クソゲーだ。あぁ、例えるならマインスイーパーの方がしっくりくるか。みんなで慎重に慎重に地雷にならない部分を掘っていってさ、地雷を当てちゃった人によってたかって「なんでそこ掘ったんだ!」「数字を見れば掘っちゃいけないってわかるだろ」「ルール知らんやつがマインスーパーやるなよ」とか糾弾されて、「掘るように仕向けたやつ誰だよ」「あそこらへん掘ってた人はみんな掘ってた可能性があるから危険」とか「地雷掘った人と仲良かった人は全員危険」とか周りの人も糾弾されて、「そもそも数字ってわかりにくいだろ」とか「掘っちゃダメなら掘れるようになってるのがおかしい」とか「マインスイーパーのゲーム自体教育に良くない」とか何とか言われる。そんな意見に迎合したマインスイーパーは地雷そのものが無くなって、ただただ四角い枠をクリックするだけのゲームになる。クソゲーだ。

責任者追及ごっことか、訳もわからん名無しの意見とか、神様である世間様のご意向とか、そんなくだらないことでせっかくの面白いコンテンツや文化や風土を自らつまらんものに仕上げていく。その姿勢たるや大変天晴れだ。日本に蔓延する世間教の信者様たちは神様を味方につけて今日も元気に何かを批判している。批判された人は「私も世間様の信者です」「世間様のご意見が一番です」「異教徒ではないので火あぶりにしないでください」と自身の価値観や思想を踏みつけてまで世の中に溶け込もうとする。まるで踏み絵だ。開国前の江戸の光景がインターネット上に広がっている。

あぁ、また世間様から審判がくだされた。有罪か。無罪か。世間様のみぞ知る。